2006年09月01日

されば我が血を捧げよう。

映画のチケットを買ってから、入場まで少し時間が空いてしまったので、時間をつぶそうと、日本のコーヒーチェーンがスターバックスに擬態した感じの店に入る。が、満席。アイスコーヒーを持って、雨の中をさまよう事に。

コンビニの前で雨宿りをしていると、日赤の職員と思しきナイスミドルが「少しだけお時間を下さい、少しだけお時間を下さい。」と道行く人に献血の協力を求めている姿が目に入る。彼らは屋根と茶と菓子を、僕は余っている時間と血を。利害は一致している。よってひさかたぶりに献血をする事にする。

ちょっと驚いた。至れり尽くせり。血と脳を見る事が極端に苦手な僕は、以前献血の途中で気分が悪くなりギブアップした事がある。んが、今日は何から何までスムースに事が進み、ほとんど嫌な気分を味合わなかった。作業手順の細かい所に、少しでもこちらの負担を減らそうという工夫がなされてるように見える。

これは時間が彼らを進歩させたのか、渋谷の献血ルームが特別優秀だったのか、以前僕に当たった某所の職員があまりにぞんざいだったのか…。今度は新宿のに行ってみよう。

posted by ぼよ at 23:50| Comment(30) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

パン以外

ビースティ・ボーイズ撮られっぱなし天国を見に行く。渋谷での最終日、かつ、昼間の上映会場は38席しかないので、入れない可能性も頭をよぎったがその場合は蟻の兵隊を観る事にして、雨のそぼ降るなか渋谷に向かう。

予想に反して席はふさがっておらず、僕がチケットを買った時点で整理番号は4番。しかも本日は「映画の日」なので\1000でござい、との事。勝手にあきらめずに出て来てよかった。

この映画はビースティ・ボーイズというグループのライブを、会場のファン50人にハンディビデオカメラを持たせて最初から最後まで撮り続けてもらい、その映像(とプロのカメラマンが取った映像)を編集して作ったものだ。僕はビースティ・ボーイズというグループの事はまったく知らなかった。主に映像的な面への興味をそそられてこの映画を観たいと思ったのだ。

んで、映像としてどうだったか。正直よく分からない。そもそも僕はライブビデオという物をあまり観た事がない。たまにテレビで見かけるプロモーションビデオ(まあ、違う物なんだが)と比べると、よくデコレートされたそれらに対して地味なようにも感じる(面白い効果もあったけど)。しかし、何と言うかめちゃくちゃ楽しいのだ。客観的にどうこう言うのは野暮だよなと思わせる力がある。ただし、この作品自体は非常に複眼的で、ステージ上の人物が豆粒ほどにしか見えないため、会場にいながら今ひとつ乗り切れない人達の存在も余さず映し出している。うーん、感想を書いてて不思議な気分。

ともあれ、ものすごく幸せな気分になれました。やっぱ家で見るより映画館で見るのが断然いいと思うんだが、残念ながら渋谷では今日までだったのでお奨めする事ができませんな。関西では9/2かららしいので、そちらの方をぜひ。

1つ残念だったのは、音量はあれが限界だったんだろうか。少なくともあと2割り増しくらいの圧迫感が欲しかった。

posted by ぼよ at 23:45| Comment(1) | TrackBack(0) | 入/出力 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月20日

死ぬまでにはやっときたい

シュレーディンガーの猫の核心」という文章がちょっとした話題になっているようだ。内容は量子力学の解釈問題をちょっとアレな感じに「解釈」してしまったという感じ。それに対して反論する人も現れている。

んで、気になったのはこの両者の「量子」という言葉の使い方。

「量子を粒子と見なすこと」
シュレーディンガーの猫の核心:「問題の本質」の節より
量子は、言うなれば存在の確からしさの濃淡パターンとして広がっているだけなんです。
分裂勘違い君劇場 - 「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由:「これは哲学でも禅問答でもない」の節より

分裂勘違い君劇場 - 「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由」には「『量子は粒子なのか』という質問自体がピントずれ」という節もあるのだけど、僕は別の意味でこの設問はピント外れに思える、というかカメラがあさっての方向を向いてる気がする。

たとえ話としてちょっと不適当かもしれないが、イメージとしてはこんな感じ。
「あの店では 1kg単位で水を売ってくれるが、『1kg』とは果たして液体だろうか?固体だろうか?」

そもそも量子ってのは、それまで連続的な値を取ると思われていた物理量が、不連続で飛び飛びの値しか取れないと考えなければつじつまが合わんという事が分かってきて、その飛び飛びの値の最小単位を「量子」と名付けたんじゃなかったっけ(なんかちょっと理解が怪しいような気がするけど気にせず先へ)?だから、もともと量子って言葉は素粒子(電子・陽子・中性子)といった言葉とは、指し示す概念が違うのだ。

因みに、この「量子」という訳語自体が混乱の元なんじゃないかとちょっと辞書を引いてみたところ、electron(電子)、proton(陽子)、neutron(中性子)はそれぞれカッコ内の語義しかないが、quantum は「量子」以外に「量」「分け前」などの語義があるようだ。おそらく先にあげた electron など素粒子たちの名前は、そのものを指し示すために新たに作った言葉であるのに対して quantum は既存の言葉を借りて術語として定義し直したのだと思われる。いずれにしても、日本語で「電子」「量子」といったときより語感的に近くはなさそうに見える。ただし「光量子」は「light photon」「light quantum」など入り乱れている。訳の混乱なのか、もとの概念の混乱なのかよく分からん。

実際僕が勉強した範囲では「量子」って言葉は「黒体輻射」「光電効果」の解説のために「光量子」(「光子」(光の粒子性に注目した時の名前))って言葉が出てきた以外は、「量子的な」とか「量子化された」などの、値が飛び飛びになるという条件を考慮に入れた枠組みを使っている事を表す--「古典的な」と対をなす--形容詞としてしか使われてなかったように思う。僕の理解が足りないだけで、もっと先に行けば「量子」って言葉が名詞として大活躍するフィールドがあるのだろうか?

結局「量子は粒子なのか」という問いのピントはともかくカメラの向きを修正すると「量子論的に見たとき電子は粒子なのか」「光は波か粒子か」(現在こう言えば、ニュートンの光粒子説と勘違いする人はまずいないだろうという事で)位になるんじゃなかろうか。

以上、文学方面からの違和感表明でした。

posted by ぼよ at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 電徘徊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月13日

愛と勇気以外は知り合いです

んー、不登校をマイノリティの問題として扱うのは適当なのか、いまだに疑問なのだがうまくまとめられないので、とりあえず気になっている喩え話に文句を付けとく。

常野さんは不登校児を「ニンニク」に喩える。

しかしでは、「無臭」ではないニンニクの臭いがするニンニク、病気・暴力・ひきこもりを抱え続けた不登校児の立場、とくに大人になっても生きがたさを抱えている者の立場は一体どうなってしまうのでしょう。「不登校=ダメ人間」という偏見がとけ、不登校でもエリートになれることが実証されたとして、それは不登校差別の解消を意味するのでしょうか?
(元)登校拒否系:反自由党のニート・ひきこもり・不登校政策

さらにその匂いというメタファーはこんなものまで含む、広範な概念である。

もしマイノリティーに「モデル」が必要であるのならば、それにふさわしいのはネオ麦茶であり酒鬼薔薇聖斗でありM君であり宅間さんであり新潟事件の青年でしょう。支配的価値観から評価しやすいような人材を「発掘」してきて寛容の精神を示すことではなく、最も忌み嫌われるべき、おぞましき者たち、「限界」を超えてしまったような者たちを肯定できるかどうかということによって、私たちの差別との距離は測られます。

工エエェ(´Д`)ェエエ工
これって「匂い」か?その後には納豆とかも出てきてるけど、引用元の文意としては納得できても、ここで挙げられた人物達の行為と類比するにしてはまったく不適当な喩えに思える。匂いで人は死なん。大体「肯定する」ってどういう意味?何を肯定するの?アフリカの人食いライオンを日本から(その存在から、存在によって引き起こされる結果全てを)肯定する事は簡単かもしれないけど、そのライオンのご近所に生きる人間は、避けるか檻に入れるか殺すかするだろう。

食べ物に喩えるならフグ辺りがいいんじゃないか?実際はどうなのか知らんけど、毒の強さがまちまちで、食べてもなんら問題ないものから、なんか変な味のするもの、致死性を有するものまでさまざまな状態を持ったフグ。

これだったら、対する側にも「そもそもそんな危ないもの食わない」とか「はらわた取り除けば安全ですよ」、「画期的な養殖方法が見つかりました」、「一尾々々よく見れば毒の有無が分かる」、「あのピリピリがいいんだ」、「そりゃフグを食べれば死ぬ事もありますわな」とかバリエーションが増える。ここで忘れるべきではないのは「匂い」(この喩えでは「はらわた」)の含意をあまりに広く(深くかな?)取ってしまったため、今挙げた対策やら感想を述べる側も当然フグ以外ではありえないという事(もちろん自分のはらわたには毒が無いとか、切除済みだとか思ってるかもしれないけどね)。あれ、これじゃあ共食いになっちゃうか?

うーん、じゃあアンパンマンにすればよいか?みんな「ボクの顔をお食べよ」と無理矢理互いに食わせ続けるアンパンマン。ちょっと味がアレだとどこからかジャムおじさんやらジャムおばさん(のふりをしたアンパンマン)がやって来て「お前の餡子は腐っている」と説教くれて「森の工場に持ってって美味しい餡子を入れなおしてやる」とか言って拉致りに来るの。
脱線した。結局言いたいのは、餡子の品質を安定させよう(= 美味しい餡子の基準を作り、その基準に満たない餡子を処分(再処理)しよう)というのは確かにいかがわしく思えるが、僕達が無理矢理互いに自らを食わせ続ける存在であり、かつ、食ったら重大なダメージを与える(時には死に至らしめる)餡子が存在しているならば、食う方の味覚を云々するのでは済まない、食わせる方の餡子をどうにかしていただかにゃならんときもあろう、って事。かな?

posted by ぼよ at 21:59| Comment(9) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月17日

わかりません

FLASH Basic を購入。が、ライセンス解読につまづく…

(d) <略> さらにお客様は、 (i) Macromedia ランタイムがエンドユーザー製品の一部として出力されたファイルと共に配布または使用されること、および (ii) お客様がエンドユーザー製品の配布先に対し、 Macromedia ランタイムに関する権利または所有権を譲渡しないこと、および Macromedia ランタイムを含むエンドユーザー製品の逆コンパイル、または逆アセンブルは禁じられていることを明示し、それに同意することを要求する場合に限って、エンドユーザー製品および付随する Macromedia ランタイムをコピーし、当該コピーを配布することができます。さらにお客様は、エンドユーザー製品を教育用ソフトウェア、インタラクティブなマルチメディア資料、インタラクティブなエンターテインメント製品などの再生を目的として配布することはできません。
MACROMEDIA ソフトウェアエンドユーザーライセンス契約:第2条 (d)

エンドユーザー製品の定義は

(b) 「エンドユーザー製品」とは、お客様によって生成された Macromedia ランタイムを含む出力ファイルを意味します。たとえば、教育用ソフトウェア、プレゼンテーション、デモンストレーションファイル、インタラクティブなマルチメディア資料、インタラクティブなエンターテインメント製品などがエンドユーザー製品と見做されます。
MACROMEDIA ソフトウェアエンドユーザーライセンス契約:1.定義(b)

落ち着いて考えてみよう。俺はやれば出きる子だ。

まず「エンドユーザー製品」というのは、「お客様によって生成された Macromedia ランタイムを含む出力ファイルを意味」すると。 Flashアプリケーション(.swfファイル)自体が「エンドユーザー製品」だとすると「Macromedia ランタイム」という単語の意味が分からなくなる。ランタイムについての定義は無いが、まあ普通に考えて Flashアプリケーションの実行環境という事で良かろうか。ブラウザ上で見るならブラウザにFlashプラグインを導入するわけだが、ブラウザが無くても動作するように実行環境込みで出力する機能があり、その機能によって出力されたものが「エンドユーザー製品」という事でよろしいか?

んでお客様は自分自身で書いた素材とコードの混合物であるところの Flashアプリケーションと Macromedia が権利を持つところのランタイムを組み合わせたもの(=エンドユーザー製品)を条件を満たせば配布する事が出来る。

しかしエンドユーザー製品を「教育用ソフトウェア、インタラクティブなマルチメディア資料、インタラクティブなエンターテインメント製品などの再生を目的として」配布してはならない。…えーと、筋は通ってるのか…?「エンドユーザー製品」の定義に例示された用途の物の場合は配布が禁止され、例示以外の用途の「エンドユーザー製品」は配布しても良いと。いや、しかし…、なんか読み違えてる?

とりあえず adobe のページに行ったけどさ、FAQには僕の疑問の答えは載って無かったよ。この疑問って一般性は無いんだろうか。

本契約についてのご質問は、下記宛にお問い合わせください。 Macromedia, Inc., 601 Townsend, San Francisco, CA 94103, Attention:General Counsel.
MACROMEDIA ソフトウェアエンドユーザーライセンス契約:14. 一般条項

If you want to say tsubekobe, in English. って事か…。

ま、ランタイム配る予定は無いから「ご成約」って事でよいかなぁ……。

posted by ぼよ at 03:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月12日

おお、すごいぞ

感動した。

memo
posted by ぼよ at 15:52| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月09日

メンデル教

最近女系天皇を認めるかについての議論の中で「Y染色体」がどうのってのがあるけど…。

天皇というのはどんなに薄めても宗教的な存在だよな。んで、そんな事に関わる問題の判断を、科学という権威によって担保しようってのは頭悪くないか?天皇は科学とかその他世俗のもんと独立に価値を持つ、と信じたくは無いんだろうか「Y染色体」云々言ってる人は。

それとも単に「珍しい種族だから保護しよう」って事?

遺伝子云々を言うのは、天皇家の「血」に霊的特権を認める立場からすれば不敬に当たるし、そんなもんを認めないとしても単純に失礼なんではなかろうか。

# と、書いて一応ググってみたら、何、「Y染色体」とかって旧宮家の人まで言ってるわけ?ふーーん…

posted by ぼよ at 03:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月27日

京都に行けない

動物占いとかポリティカルコンパスの類って、なんとなくやってしまうが、「経"県"値」というものを算出してくれる Flash を公開なさっている方がいる。

んが、この「経"県"値」、「なんとなく」やるのは結構難しい。昔、強いパーティーが身近にいたため、かなり「経"県"値」をためてるはずなんだが、強いパーティーにくっついて行っておこぼれにあずかっていただけなので、本当の意味では「経"県"」を積んでいないとも言える。そのため、実際明らかに行ったはずなんだが、そこが何県なのか分からないところが結構ある事に気づく。ふーん、尾瀬って群馬県だったんだ…。

一応117点がはじき出された。でもこれだと京都に行けないんだよなぁ…。

また、貧乏旅行もしてみたいけど、体がついて行くだろうか…。

posted by ぼよ at 11:56| Comment(2) | TrackBack(1) | 電徘徊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月17日

尻尾

獣王記にやられ(掛け値なしに悲しい思いをしたという意味で)、MCDのデモ画面を見て「なんか違う…」と思い--シネパックって…色数増やせや!--ヴァーミリオンをクリアしたもののストーリーはまったく覚えおらず、ウルフチームのクソゲー群に感心しつつ涙し(でもクリアはしとく)、ヘルツォーク・ツバイ(とかサンダーフォースシリーズ)や、ジノーグ、レイノス(ヴァルケン??…ハァ?)、スタークルーザー、LUNA、シルフィードやガンスターヒーローズを輝く思い出にしている人は、文句なくこの文章に同意するであろう。「セガはバカだ」

ただ、バカの真骨頂「シェンムー」をやってないんだよなぁ…いまだに悔やまれる。

しかし、この頃のパチンコ業界は本当に人の心を寂しくさせるよなぁ。「CRキャンディーキャンディー」「トトロ大爆発」とか出てくる勢いだよなぁ…つーかもうありますか?

----ナムコのポリゴンレースゲー(Fastest Lap だったかな…?)をやりこんでいた時に「バーチャレーシング」「バーチャファイター」を喰らわされた驚きは今時の「ゲームは技術じゃない」ってな事を言ってる人にはやっぱ分かんないんだろうなぁ…。

posted by ぼよ at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月05日

世界は終わらなくても僕らは終わる

台風情報を見ていて「高潮大丈夫かなぁ」という心配(と邪悪な期待)で天文関係のサイトを巡っていて「フォトンベルト」なる言葉を知る。

興味がそれて、ググルさんに聞いてみると、なんか2012年に太陽系は「フォトンベルト」に突っ込んで云々と。明治だか大正だかの頃の「ハレー彗星の尾っぽに入って人類は…」てののスケールアップ版だな(とはいえ、ハレー彗星の尾っぽはちゃんと存在してたわけだが)。ノストラダムスが去った後も、この手の話題で盛り上がれる人ってのはいるんだね。

いるもんはしょうがないけど、2012年って、かなり近いよ。そんな時期に設定しちゃっていいのか?せめて2038年位にしといた方が良いんじゃないか?まあ、広い宇宙の事だから100年1000年の誤差を見越しているのだろうか。だとしたら上手い商売を考え付いたもんである。

posted by ぼよ at 22:47| Comment(1) | TrackBack(0) | アレmemo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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